
批判の話
人を信じるというのは凄いことだと思う。信じさせられるのも、その人の凄まじい力があるからだ。ただ裏切られる瞬間は平等にあったりする。そのときは当たり前に裏切られた相手をひどく責めたりするけど、それには何の意味があるだろうか。信頼関係とは何なのか。一方的に信じていただけではないだろうか。
GAZANというロックバンドのボーカルが性加害をしてバンドが活動休止になった。彼を応援していたファンが皆Xでコメントをしていた。信じていたのに、みたいなものが多かった。マヒトくんは音楽活動の中で戦争反対のメッセージや政治批判などを行ってきた。故に、誰がものを言ってんだというオチになってしまった。信頼関係は崩れてしまったようだった。
GAZANが好きで音楽を聴いたこともなければ、マヒトくんのことを1mmも分からないが、彼に日々を救われていたとしたら悲しんだりというのは容易に想像できる。さらにはその感情を訴える矛先が本人のアカウント宛になるのも分かるし、本人に届けるのは怖くてタイムラインにとりあえずつぶやいてしまう人の気持ちも分かる。(目の前の人に素直に好きっていうことですら簡単ではないものね。)
ただし、そのどれもが対話不可能なものであるにも関わらず、おこなってしまうのは何故なんだろうか。心のうちにとどめていられないのはどうしてなんだろう。
手っ取り早く人を信じたり、人から信頼を得たりするには、好きなことが一致するよりも嫌いなことが一致する瞬間の方が強度があると考えている。例えば自分だけが嫌悪感を抱いてると思っていたものを初めて出会った人も嫌いだと知ったとき、相当話は盛り上がる。ここにもいたのか!みたいな。ネガティブな情報の共有は、普段開示困難である自分の細かな感覚や価値観の共有につながるのだと思う。
さらに、人と人とが衝突する瞬間はこの共有がうまくいかない時だと思っている。衝突を解決する手立てはコミュニケーションをとる他なく、Xで批判の声をあげるのは問題解決に繋がらないことがいったん明らかになる。
この後僕は、人間は批判をすることで複数対1の構造を作り、それに属したりして、安心感を得ているのかと考えた。日常のどこにどんな理由で、それぞれが孤独を抱えているのかは知る由もないけど、その人たちが手を取り合える瞬間はネガティブを共有できる瞬間だと思う。強く繋がれる部分。無意識のうちに、その聖域へ向かいたくなる衝動を抱えて毒されているのかもしれない。
前にも同じような記事を書いたことがある。批判は人間の承認欲求だったり〜みたいな話をしたから、気になった人がいたらそちらも是非読んでみて下さい。
なんにせよその記事を書いた時から一貫して、攻撃することは良くないと思っている。自分の悲しみや怒りは、勢いや感情が先行したままぶつけていいものではない。その背景には覚悟が必要で、その先には話のオチ。選択がなければならないと思う。
と、このようにしてマヒトくんも散々人に何かを伝えてきたんだと思う。だから大切なのは、誰かの活動や言葉から何かをキャッチしたならば、それらを自分なりにしっかりと噛み砕くことだと思う。そうすれば大体の状況で、まず溢れ出してしまう感情が"怒り"になるなんてことは無くなると思う。
多少言葉を選んでいたら、数日感の更新が滞ってしまいました。僕のよくない言い訳癖。
告知です!
(8/6 歌舞伎町ストリートライブというものに出演が決まりました。時間は18:30から。3マンライブです。チケットフリーですので是非目撃しにきて下さい!ドラムピアノのデュオセットです!)
■会場: 歌舞伎町シネシティ広場
■入場: 無料
■出演:CheChe/JANO/LIGHTERS
*持ち時間は演奏時間30分+転換リハ15分
①18:30~19:00 JANO
②19:15~19:45 CheChe
③20:00~20:30 LIGHTERS
トリのライターズは5〜6年前から知っていて対バン嬉しいです。レッツゴー。
それでは〜

