
ものづくりについて
人間のDNA的に誰しもものづくりに興味が湧く年齢はあると思ってて、それが肥大化していった後にクリエイターの未来が待っているんだと思う。ものづくりに対する思いが肥大化したとまではいかずとも、僕の心の中にはものづくりのパッションが今も残っている。
私はものづくりが好きではあるが、素材を扱って何かを作るときに、どうしてもその素材に執着する癖がある。それで色々な事に手を出せてない節があったりする。
以前実家でレザーの鞄を作った時の話。自分がこれから裁断したり縫製したりするものが動物の毛皮である事を意識しないわけにはいかなかった。
ハギレを自らの手で生み出したくなかったから、そもそも母がバックを作って出来た余りのレザーを使って作った。作ったものは無駄にしたくなかったので、初めて作るものだったけど全身全霊、本気を出して丁寧に作った。ただハギレとはいえ、どこの誰が処理したかもわからない革を使ってものを作る事にはかなりの違和感を覚えた。作り終えたときにはどっと疲れた。
例えばの話だけど、自分が生きるために狩猟をしたとして、剥いだ動物の皮を加工してそれをカバンにするとか、これならいくらかマシかもしれない。僕が引っかかる場所は、扱っているものがどうやって出来たかを知らずして、何かを作っている気にはなれないという事なのだと思う。ルーツを知らない素材を使ってものを作るなんて、ただのママごとにすぎないとさえも思ってしまう。革製品なんて特に思う。素材のもて遊び。革製品を買うときにはあんまり思わないんだけど、作るとなると急に具合が悪くなってしまう。
今年は初めて服作りもした。これも母が服を作った時に出たあまりの生地を使わせてもらった。完成するまでどんな気持ちになるかはわからないのでとりあえず最後まで作ってみた。
服をデザインして、実際にパターンを起こして、生地を裁断して縫製して服を作った。良い体験だった。革を扱っていたときよりか、はるかに気持ちが軽くて、手もよく動いた。素材への執着も軽減した気がした。
ただ、ままごと感が消え去ったかと言えばそうでもなかった。この生地、どこの工場がどんなノリで作ったんだろうかとか。何も知らないまま素材を加工してものを作るのはあまりにも便利すぎて手触りがなく、ものを作っているのではなくて、ものを作らせてもらっているという感覚になる。すると手間暇かけて自分が何をやっていたのか分からなくなり、チグハグになってダメになってしまう。でもこんなことを言っていると何も作り出すことはできなくなってしまうのも解っている。人それぞれが妥協点を見出していく他ない。
最近マリメッコ展に行ったけど、全ての生地にはデザイナー名、プリント名、デザイン年が印刷されているらしい。そういうの、いいよね。

音楽を作る上でなくなるものは、あまりないから心地がいい。創作したものも目に見えないし。目に見えないのに何かを感じることができてとっても良い。物体がないけど確かに作り出したものがあるのって不思議だよね。機械を通してしか形を観測できない。まるで宇宙。(楽譜が書けない人ならではの薄っぺらい感性かもしれない)
ちなみにCDとかには何も思いません。はなから理屈のわからない物体にはなんの執着ありません。pcもwifiもテレビもCDも携帯も何から何までオーパーツだと思っています。前半に語っているような熱量がある反面、便利なものは使っていっちゃえばいいという精神を持ち合わせております。僕はバランスがいい人間です。
オーパーツは古代のものを指すと思うけど、僕的にはiPhoneなども時代に見合っているとは思ってないのでオーパーツと言いました。
1977年に打ち上げられたボイジャー1号が、今年の11月に1光日離れた場所に到達するらしいんだけど、そんな年に打ち上げた衛星がまだ壊れずにいるのが信じられない。きっとその時にだって本気出せばスマホも作れたんだと思う。僕たちはいつまでも世界に踊らされて生きている。
それでは〜
ちなみに、1光日は光が24時間かけて到達する距離です。11/18 皆さんも遠く宇宙に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
